矛盾もたくさんあるし、白か黒かの答えを出すのが苦手で、答えを出すときの条件設定ができないし、やっと出した答えだって時とか環境とかの変化によって変わってしまう。だから研究者は向いていないと思ったのだけど。とにかく、どうやら私の頭の中には秩序なんてものは存在しないらしいのである。
「反対意見が多いのは理解されていないため。理解が進むよう丁寧に説明する」
そのような言葉を何度もテレビや紙面で見聞きした。そういう彼から「説明」を聞いたことは無いが、「主張」は聞いた。これから説明があるのか。そう思っていたら話が終わっていた。「あぁ、彼は誰も見ていなかったんだ」と理解した。論破という言葉は威圧的で好きじゃないが、そもそも彼は論破する気もなかったんだろう。これは一種の無視だな。
無視したくなる気持ちは分からないでもない。自分の気持ちや考えを理解してもらうためには、まず相手に聞く耳を持ってもらう必要がある。これが結構大変で、ましてや自分とは真逆の意見を持っている相手となれば、耳を貸してもらうことは富士山よりも、いやいやエベレスト登頂よりも難しいと感じることがある。エベレストの頂きに立つことができるのか。そう聞かれて、見えそうで見えないほどの高い山の頂を眺め、「無理かな~」なんて弱気になる気持ちは分かる。無視しちゃう方が簡単だ。でも、それが許される内容と許されない内容がある気がする。
しかし、インターネットというものは疲れる。私はだいぶ振り回されている方だと思う。インターネットが普及して、誰もが自分の意見を発信できるし、情報収集が簡単にできて便利ではある。でも、いろんな人の意見を目にすると、膨大なエネルギーを消費したような気になる。自分と同じ意見を持つ内容であれば「そうだ、そうだ!」と同志を見つけたような気がして気持ちも良くなるが、全く違う意見を目にすると「この人全然分かってない!」とか「間違っている!」とか、いちいち反論したくなって厄介だ。
すると、幅広い情報が拾えるインターネットを使っていたって、気付けば周りには自分と同意見の人ばかりになっている。自分が正しいと思うものに意見されたら腹立たしいし、疲れたくないし、世界は自分が正しいと思う方向に進んでいると思いたいし、自分はマイノリティーではないし、なんて信じたいのかもしれない。
でも、気付けば反対意見の人が気になっているのである。疲労感よりも好奇心が勝るのである。自分と違えば違うほど質問したくなる。興味深いのである。興味深く質問していると、「なるほど、その考え方もいいな」とか「なんだ、同じ方を向いてんじゃん」なんて思ったりする。
白とか黒とかハッキリつけようとする癖が特に日本人にはあるのかもしれない。「1+9は?」という出題の仕方ではなく、「答えが『10』になるには何+何がある?」という出題方法にできないかな。そしたら何通りも答えが出てきそうだけど。
意見が違うように見えるけど、実は根本的には同じ話をしていて、答えを出すためには多様な方法があるよね、って気付きながら話ができたらいいのにな。
意見が違うように見えるけど、実は根本的には同じ話をしていて、答えを出すためには多様な方法があるよね、って気付きながら話ができたらいいのにな。