2015年8月28日金曜日

お茶くみしたい。

ホッとしたいな。
そう思ったら何をするか。私ならまず温かいお飲み物を準備する。真夏なら冷たい飲み物に変わる。麦茶がいいな。でも、基本的には温かいお飲み物がほしくなる。紅茶にしようか、珈琲にしようか、ほうじ茶ラテにしようか。ベースがなんであっても取りあえず牛乳は入れたい。

時々、変わり種でミントティーなんかもアリ
例えば仕事で会議なんかに参加することがよくある。会議に絶対必要なものといえば、温かいお飲み物である。資料よりも大切かもしれない。自分が会議の主催者であれば、多少時間に余裕がなくても絶対に温かいお飲み物は用意する。絶対に。
私がせわしなく準備していると、「飲み物なんてどうぞお気を遣わずに」なんて言われることはよくある。確かに参加者に飲ませたいという気持ちもあるが、まずは自分が飲みたいのだ。少しでもリラックスしながら、ただでさえ硬くなりがちな会議の雰囲気から逃れたいのである。まず、ホッとしたい。

「お茶くみを女性にさせるなんて、差別的だ」
お茶くみ=女性の仕事みたいな構図が昔からあり、男女平等が言われる昨今は、女性にお茶くみなんてさせられないといった風潮を感じる。別にいいじゃないか。私は温かいお飲み物を飲みたいんだ。
確かに、「女性」という限定は必要ない。男性だって入れればいい。わたしは、へりくだっている訳でも、女性らしく見せたい訳でもなく、ただただ温かいお飲み物を飲みたいだけなんだけど、それすら何となく窮屈に感じるのは時代というものなのだろうか。使った食器についてもそうだけど、自分で洗うことが何となく当たり前になっている。基本的にはそうだと思う。けど、同じタイミングで洗う必要があれば一緒に洗えばいいじゃんか。変な個人主義だな、なんて思ってしまう。

女性だからとか、男性だからとか、分け隔てなく社会において同じ役割をなんて、ありえないと思う。だいたいにして脳の構造が違うのだから、同じ仕事が同じようにできるわけない。向き不向きがある。女性らしくとか、男性らしくとか、女性はこうあるべきとか、男性はこうあるべきとか、言われると腹が立つ。けど、基本的には本能的にも生物学的にも適役ってのがあると思うな。わたしは、まずは自分のためにも、みんなに暖かいお飲み物を入れたいもの。

2015年8月23日日曜日

仙台うみの杜水族館 新しさと松島時代の懐かしさも

2015年7月1日にオープンしたばかりの「仙台うみの杜水族館」に行ってきた。
これで東北で行っていない水族館は、鶴岡市立加茂水族館(山形県)を残すだけとなった。ふふふ。

石巻から高速で向かうと、仙台港ICを出て10分もかからず見えてくる。駐車場にはすんなり入ることができた。ナンバーを見ると仙台以外が多く、山形や福島などの東北だけでなく、練馬や札幌なんてのもチラホラ止まっている。平日にも関わらず親子連れがたくさん来ていた。
真新しい建物が見えてくると、チケットを購入するための列が少しだけできていた。「120分待ち」などと水族館のTwitterに流れていたこともあり、事前にチケットを購入していたため、すんなり中へ。これは便利です。

あんまり詳しく書いてしまうと、初めて行く人にとっては感動が薄れてしまうかもしれない。ほどほどに表現するならば、マリンピア松島水族館に行ったことがある人ならば、「あ、元気だったのね。新しい暮らしはどう?」なんて、聞きたくなる親近感はすごく湧く。松島時代に比べたら、すごい人が見に来ている訳だけど、ストレスかかってないかしら?なんて心配にもなったりする。新生活を始めたばかりの子供たちを思いやる親の気分はこんな感じだろうか?、などと想像したりする。

見応えがあるのは、大水槽「日本の海」のマイワシの群れの餌の時間かな。
要は餌をやるだけなんだけど、イベント名にも迫力がある。
その名も「Sparkling of Life(スパークリング・オブ・ライフ)」。
あちらこちらから噴出される餌をめがけて、マイワシの群れが右往左往する。そのたびに、鱗がキラキラ光る。わぁ~ってなる。



八景島シーパーラダイスからバンドウイルカが来たことも大きいのかもしれないけれど、一般的なイルカショーかな。敢えて珍しさを強調すると、イルカとアシカのコラボレーションによるショーが見られること。確かに他の水族館では見たことが無い。
個人的には、閑散とした松島水族館にいたアシカたちは、初めてイルカに出会った時、どんな気持ちだったのかと思うと結構ドキドキする。
ただ、コラボ芸は瞬間芸と言ってもいい。あまりの寸劇っぷりに、「えっ!?」と思わず声が出る。お見逃しなく!

松島時代よりも力を入れていると感じたのは、東北の海に関わる産業・漁業の展示が充実しているところ。東北の海で盛んに行われているホヤやカキ、ギンザケの養殖に関する展示・解説はなかなか細かい。ぜひ、じっくり読んでほしい。
特にホヤなんて、ここまで注目する水族館は他にないし、よく知ると奇想天外な生きものであることがより一層感じられておもしろい。ちょっとマニアックかもしれないけど、身体にプラスとマイナスの突起を持っているなんて面白すぎ。

松島時代と比べると、いろいろと新しい生きものも登場している。イルカはもちろん、フェアリーペンギンとか、ウィーディーシードラゴンと、ニホンリスとかいるけれど、一番の衝撃はフナムシ。
いろんな水族館に行ったけれど、フナムシを展示しているのは初めて。かなりチャレンジングなことだと思う。でも、身近な磯の生きものだからフナムシのことだって知ってほしい。

建物の作りも今風?になっていた。例えばレストランの壁が水槽になっていてゴマフアザラシやオタリア、ペンギンたちが泳ぐ姿を見ながら食事ができたりする。子供たちが遊べる水辺や映像で楽しませる設備があったりと、子どもたちを飽きさせないような工夫がされていた。

大人としては、生きもの1つ1つの説明があると嬉しいかな。いずれの水槽も基本的には展示している生きものの名前しかない。その生きものがどんな生態なのか、どんな面白さがあるのか等、魅力をもっと伝えてもらえると良いかな、なんて思った。
生きものの面白さが分かれば、一度だけでなく何度でも会いに行きたくなるだろうから。

まだまだ開園1カ月ほど。次に訪れた時にどれだけ変容しているか、今から楽しみ。







仙台うみの杜水族館
HP http://www.uminomori.jp/
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2015年8月21日金曜日

コロコロ変わる、心も空も

心がコロコロ変わってしまう。
で、選択した後も後悔したりする。うだうだうだうだ考え続けることばかり。あぁ、いやだ。

人生、これにかけてみようかな。
なんて、結構大きな決意を持って選択することもある。一度きりの人生だもん、後悔しないようにしなくちゃ。どんな荒波も受け入れる覚悟だ!なんて。でもまぁ、そんな大それた決意ですら案外早く折れることもある。決意や覚悟、人生の選択なんて、そんなもんかもしれない。
選択肢が多過ぎると人は不幸になるという話をどっかで聞いた。なるほどと思う節もある。一応選択はするけれど、選択後だってうだうだうだうだ考えて、挙げ句の果てに結局何の選択もできていないような気になるばっかりだから。

男の人は「筋」というものを大事にするらしい。
話の筋は変えてはいけないって。一度決めたらやり通すのが男ってもんだ、みたいな。国会での議論が際たるもの。筋を通したいスーツ姿のおじ様たちが質問とは関係ない自分の主張をし続けて、一向に話が進まない。そりゃそうだよね。話を変えたら男が廃るわけだし。でも、途中で違うかもとか、別の道があるかもって思うことは無いのだろうか。本当はあるんでしょ?

曲げない、曲げられないおじ様たちを見ていると、コロコロ変わる方が健全なんじゃないかって思えてくる。答えはひとつじゃないし、その時代や関係する人やものによって答えなんて変わるもんでしょ。一つの選択をしたとして、それが正しいと信じこんで、人の話を聞けなくなる方が嫌だな。変わっちゃいけないなんて誰も求めてないし、そんなルールはないでしょ?

もう秋だし。空模様だってコロコロ変わるんだからさ。

2015年8月8日土曜日

夏、虫、切ない気分。

家から駅までは歩いて1時間ほど。少々距離があるが、川沿いを散歩気分で気持ち良く歩けるので全然苦にならない。川沿いは原っぱになっていて、一歩進むたびにバッタがびっくりして草から飛び出してくる。もしかすると何匹か踏んでしまっているかもしれない。ごめんよ~、ちょっと通りますよ~。
開けた場所にはバッタが多い。

その時、一際大きなバッタが飛んだ。殿様バッタだ。「あ、この感じ知ってる」。頭の中に幼稚園時代の光景が広がった。「そうだ、わたし、小さい時は北海道に住んでいたんだ」。
幼稚園の頃は宅地造成のために草原が広がっている場所がたくさんあった。そこには無数のバッタがおり、夏になると裸足で原っぱを駆けずり回り、小さな虫かごがバッタでいっぱいになるまで飽きずに獲っていた。虫かごの中で逃げ惑うバッタが、かごの側面に当たる感触まで思い出した。初めて北海道を懐かしいと思った自分に驚いた。

殿様バッタの捕獲なんて、未だに朝飯前である。

先日、友人たちと外で焼肉をした。夏の夜といえば、虫。女子ばかりが集まっていたこともあり、虫よけスプレーでガードし、蚊取り線香もたいていた。虫対策は万全であった。けれど、夏の夜の虫たちは甘くない。次から次へと突撃してくる。まぁ、夏の夜であれば当前であり、殺してもキリが無く無意味に近い。
しかし、彼女たちはキャーキャー言いながら、バンバン殺す。叩いたり、足で踏んだり。仕方ないと思う。でも、やっぱり無意味な殺生に思えて切なくなってくる。一方で、彼女たちの行動を見ていて、とても女子的だと思った。女の子なら虫を嫌がって当然で、なんならその方が可愛げがある。私は女性的ではないなと軽く凹む。「あ、そういえば、私は普通の女の子になりたかったんだ。そうか。それで生き物好きを封印したんだ」。

無類の生き物好きであった私は、幼少時代は何の迷いもなく、虫であろうと爬虫類であろうと何でもかんでも大好きであると公言して憚らなかった。しかし、成長するにつれて、特に思春期のせいだったと思うが、虫を怖がる女子を女子らしいと思い、羨ましいと感じるようになった。蛾であろうとゴキブリであろうと平気で手で触ってしまう自分は可愛くないと感じて、恥ずかしいとすら思うようになっていた。

社会人になり、インタビューを受けた時のこと。今の職業に就いた理由を聞かれた。「生きものが大好きだから」。するとインタビュアーが驚いた顔をして、「前から知っているけど、生き物が好きだなんて全然知らなかった。そんな風に見えないし」。私はショックだった。こんなにも生きものが好きなのに、私以上の生きもの好きはいないと思っていたのに。
思い返せば、ある時から生き物好きを世間様には表現して来なかった。思春期って、自分を偽る時期なのか。しかも偽ったことを忘れていつの間にか偽りの自分が本当らしくなって、本物の好きを忘れてしまうことすらあるのかもしれない。驚いた。

夏は生きものが活動的になる季節。虫を美しいと思う自分を恥じてはいけないし、「生きてるものは何でも大好きだ~!」って叫べる大人になりたいと再確認した。そして、幼少期や思春期の頃の自分を思い出し、なんだか切ない気分になった夏の日なのでした。