2015年6月28日日曜日

自由だと暇が無い

ここ最近、自由になったせいで?逆にいつ休んでいいのか分からないでいる。自由だからこそ、怠けちゃいけないという思いが沸々と湧いてきて。。。貧乏性で仕方ない。

だいたい、いつでもどこでも仕事をしようと思えばできてしまうのがいけない。時間的な余裕を持というとすればするほど、人類は頑張っていろんな技術を生み出して、効率的になって、どこでも何でもできるようになる。これって、逆に仕事に追われる構造を生んでいるんじゃない?

一つ一つ面倒くさくても、例えば鉛筆で書いた字のせいで手の腹が黒くなっても、紙に書いた方が仕事をしている感が出る。間違えて消しゴムで消そうとしたら案外消えない消しゴムで、文字が紙に伸びて汚くなって、さらに消そうとして紙が破けちゃったりして。そんなドタバタ感が可愛らしい。ただただパソコンでカタカタカタカタ・・・無機質な音だけだしているなんて味気ない。
でも、世の中の提出物のほとんどは、パソコンで作ったものが求められるのだから、そんなドタバタは小学生で卒業してしまう。なんて、寂しいこと。

少々現実逃避気味で、ぐちゃぐちゃと考えながら迫りくる期限に追われていたところで、「軽くお茶でもどう?」とのお誘いが。絶妙なタイミング。わたしの心が届いたのかしら。
木々に囲まれた和風の喫茶店へ。雨が少し降っていたせいで、土や草の香りが一層濃く、さわやかな気持ちになる。オオルリの声がいつもよりクリアに聞こえる気がするし、地面には大きなカタツムリがのんびり滑っている。気分転換には調度良い。




もしかして、息抜きは一人でするものじゃないのかも。一人だと貧乏性な私は作業を探してしまう。誰かいてくれると、その人との時を大事にしようと考えるから、時間的、気持ち的な余裕が生まれる気がしてきた。
誰かまた、お茶に誘って~




2015年6月27日土曜日

四季があって勤勉

モンゴルの広大さについて、野生生物について、遊牧民の暮らしについて話をしながらモンゴルの人たちと食事をした。
野生馬であるモウコノウマ、アカシカ、マーモットが荒涼とした大地に佇む写真や、オオカミが月に向かって吠えていた場面に遭遇した話にワクワクする。

「大地があれば何もいらない。大地は草を育ててくれて、家畜が育つ。自然の猛威が家畜を全滅させても、遊牧民は仕方がないと思う。家畜を奪われても、仲間の遊牧民から融通してもらい、増やしたところで割増して返せばいい。GDPからすれば、トヨタがモンゴルを買えてしまう程度でしかない。でも、モンゴルには貧困がない。みんな、肉とミルクが普通に手に入る。アメリカや欧米では金持ちしか牧場を持っていないけど、ぼくたちはみんな持っている。とても豊かだ。大地を大切にして、自然を恨まない。そんな気持ちを持つ遊牧民は、東日本大震災で家を失った人たちが、瓦礫の中から金目のものではなく、子どもの靴やアルバムを真っ先に探す日本人に似ている」と。とても褒められた気がした。

モンゴルでは将来に不安を持つ人は少ないという。保険という概念も無いに等しいらしい。今をゆったりと生きている人々である。正直、羨ましい。
日本人はいろいろなことに保険をかける。健康保険、失業保険、自動車保険、災害保険、海外旅行保険などなど。安心を買う。安定した生活を望み、世界を見渡しても類稀なる勤勉の国。

日本人は勤勉で、常に時間に追われている。なぜか。
実は、四季があるせいではないのか。黙っていたって、季節は巡る。否応なしに、春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来る。しかも、ざっくり言ってしまえば1つの季節は3か月で区切れる。そんな国は案外少ない。季節が変わることで時間の経過を感じるし、逆に言うと、四季がなければどうやって時間の経過を感じるのか不思議である。

時間に追われたとしても、四季があるのは素晴らしい。それぞれの季節を楽しむ習慣が日本人のDNAに組み込まれていると自分の身体で感じる。それぞれの季節はその瞬間しかない。そう思うと、なんとかその季節を楽しもうと躍起になる。それが風流。
夏の風鈴。「音」で涼むもうとするなんて、洒落た感覚だと思う。うちわで必至で仰ぎながら、スイカにかぶりついたりするのも良い。だから、エアコンが嫌い。せっかくの夏を台無しにする。夏のじめ~っとした暑さは辛い。でもこの辛い状況も楽しむ日本が最高に素敵。勤勉なのは四季がそうさせるとして、季節ごとの過酷さを楽しむ感覚も忘れたくない。だってもし、季節を楽しむことが無くなれば、ただの勤勉な人になってしまう。それって面白くない。

2015年6月25日木曜日

2015年6月12日金曜日

忘れてた。欲張って生きたかったんだ。

SNSに明け暮れて、ブログを書くことを忘れていた。
SNSの仮想空間的な雰囲気に、急に疑問を感じて止めてみた。
たぶん、ほとんどの人は、自分のリストからわたしが消えたことに気付かないと思う。

でも悲しいかな、ネット環境を捨てきれずブログに帰って来てしまった。
そしてタイトルをみた。「よくばっていきましょう!」。忘れてた。

このタイトルを考えた時のことを思い返してみる。
あれも、これもと追い求めては、どれも為しえることができない。みたいな幻想?が、一般的にはあると思う。二頭追うものは一頭もえず。でも、それって本当?

いやいや、そんなことはない。「したい!」がないと楽しくないじゃないか。「したい!」を追求しないで、一体どうやって幸せになるんだ?頑張ったら二頭を得られるかもしれないじゃないか。
そう思ったんだった。

生きるということは、選択をし続けるということだと思う。おっきいのから、ちっちゃいのまで、様々な選択をしながら暮らしている。でもそれは、取捨選択とは限らない。
確かに、一人で抱えられる量は物理的にも精神的にも限度はあると思う。でも、その限度ってどれくらい?自分の限度を知ろうとせず、決めていない?たったの1個?

五感でものを考えるタイプで、五感を使って得たものでなければ信じられない性質である。それなのに、日々の仕事に時間を費やし、仮想空間であるSNSに現を抜かしていた。これはいけません。自分のスタイルではない。

もっと生身の感覚と、生身の付き合いを大事にしよう。仮想ではなく、現実として、いろんなものを体感したい。「すべき」ではなく、「したい」で道を選びたい。

「よくばっていきましょう!」
やっぱり、これだよね。