2012年11月23日金曜日

築地市場にある第五福竜丸のプレート

第五福竜丸のこと、どれくらい知られているのだろう。
1954年、太平洋に位置するビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被爆したのが、第五福竜丸。
この実験で大量の放射性物質を浴びた第五福竜丸の船員23人のうち一人は、半年後に亡くなっている。
この時、第五福竜丸だけが被爆したのではなく、危険区域内で操業していた漁船は数百隻にのぼるといわれ、その被爆者数は2万人を超えると推定されている。

第五福竜丸は、マグロ漁船だった。
水爆実験で被爆した時も、もちろんマグロを獲っていた。
被爆したのは1954年3月1日。
そして、この時に漁獲されたマグロは同年3月16日に築地に入荷した。
国と東京都が行った検査によって放射能汚染が判明し、築地市場内の一角に埋められた。
埋めて大丈夫だったのかも気になるところ…。
それを忘れないために、築地市場正門から向かって左側にプレートがひっそりと埋め込まれている。
第五福竜丸の事件を忘れないために

意外に知られていないこのプレート。
水産新聞の記者になり、築地に通うようになって上司に教えてもらった。
きっと、教えてもらわなければ気が付かなかった。

プレートに書かれている全文を紹介したい。

”1954年3月1日、米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被ばくした第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。
国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手にわたる前に市場ないのこの一角に埋められ廃棄されました。
 全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が落ち込みました。
築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。

 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子供たちと共に、この歴史的事実を記録するため、ここにプレートを作りました。
マグロ塚を作る会
1999年3月1日”

水産物の放射能汚染がふたたび起きてしまった今、水産関係者の思いは…。
この第五福竜丸の被爆という歴史的事実から何を学ぶのか。
パニックになることを恐れず、しっかりと対応しなければ、10円募金した子供の思いは無駄になってしまうのではないだろうか。

<参考>
水産庁:水産物についてのご質問と回答(放射性物質調査)

勝川俊雄公式サイト:水産物の放射能汚染に関する情報(まとめ)

商店街は日本の宝だ!

商店街。
この響きにときめくのは私だけではないはず。
必要なのか、必要じゃないのか、分からない店やものが存在する混沌とした感じが好き。
そして、それぞれのお店が個性を持ち、単一でない感じも好き。
人と人が楽しそうに話している場面に多く出くわすのも好き。

名古屋の大須商店街もそう。
初めて行ったのに、初めてではない感じがいい。
この感じも商店街ならではか(笑)。

ここで出会った最高の品はこちら。
守口漬!
名古屋名物 守口漬
細長い守口大根の漬物で、味は奈良漬に似ている。
でも、奈良漬よりもシャキシャキしていて歯ごたえが素敵☆
ちょっと切ってしまったけど、中身はこんな感じ。
母大絶賛の守口漬
ついでに、大須の商店街は400周年祭の開催中だった。
400年って…。
商店街も日本の宝の1つだな☆

名古屋のモーニング、恐るべし~♪

初、名古屋のモーニング。
飲み物を注文すると、いろんなものが付いてくるという噂。
どれだけすごいのか、本日、初体験なのです。

名古屋のモーニング体験 豆三郎

友人に連れられてやってきたのは豆三郎。
有名らしく30分待ち。
朝食を食べるのに並ぶこと自体、人生で初。
すごい人気だわ~

で、メニュー表を見てみると、飲み物は通常の値段。
豆三郎のメニュー表
ミルクティー380円を注文することに。
すると、店員さんが「サラダバーをご利用ください」とのこと。
豆三郎のサラダバー
行ってみると、たくさんのサラダ。
わ~い♪
盛るぞ~

サラダを盛って席に着くと、ミルクティーとトースト、ゆで卵が運ばれてきた。

「え?これ380円なの?本当に?」
これで380円!


これで380円とは・・・。
恐るべし、名古屋のモーニング!

2012年11月22日木曜日

UFOみたいだな~ オアシス21


名古屋市内にはUFOがあるのか?
この建物、すごい!
栄にある‟オアシス21”。
アメージング名古屋ですね~

この宇宙船の上も歩けるようになっているらしい。
昼間に上に行くとこんな感じ。

この日はよく分からんキャラクターが2匹、イベントをしていた。
なんだか分からないけど、かわいいから許す(笑)

都会のオアシス藤前干潟 市民の思いが行政を動かす

ラムサール条約をご存じだろうか?
簡単に言うと、水鳥にとって国際的に重要と認められた場所を保全するというもの。
現在、日本にはこのラムサール条約に登録されている湿地が46か所ある(ちなみに全世界では、2046か所を数える)。
この数字を多いと感じるだろうか?それとも少ない?

条約にするためには、国際的に重要であると認められるのはもちろんこと、国内法で一定の保護規制がかかっている必要がある。
そして、この条約に登録するためには地元地元の賛意が必要。
最低でも3つのハードルがある。

渡り鳥はその名の通り、一か所で生涯を過ごすのではなく、繁殖期などに大移動する。
地球上で一番長い距離を移動するといわれているのがキョクアジサシ
北極圏にあるグリーンランドから南極まで移動し、その距離は一年間で8万キロに達するという。
すごい。

たいていの渡り鳥は目的地に到着する前に一休みする。
栄養補給して、目的地までの長旅に備える。
つまり、渡り鳥の目的地だけを保護すればいいわけではなく、羽を休める場所も必要というわけ。
ラムサール条約登録湿地の話をすると、「46か所もあるのか。有難みが薄いな」なんて言われることも…。
でも、少なくないかなって思う。
住む場所と休む場所と繁殖する場所と、まぁ、生きる上ではいろいろ必要なのにもかかわらず、日本では46か所しか保護されていないなんて。
もちろん、別の形で保護されている場所もあるわけだけど…。

2010年から、とある地域のラムサール条約登録について関わってきた。
そのため、他のラムサール条約湿地にも関心を持つようになった。
特に、ラムサール条約の登録湿地となったことで、どのような効果が地元にもたらされるのかについて知りたいと思っている。
そこで、名古屋市にある藤前干潟に行ってきた。

日本で唯一政令指定都市にある藤前干潟
藤前干潟は、日本にある登録湿地の中で唯一政令指定都市にあるめずらしい湿地。
都会の中のオアシスとでも言うべきかな。
今年で登録から10周年を迎えた。

この日は潮の引きが弱く、干潟と水鳥を見ることができなかった。
対岸にはごみ焼却場も見え、本当に登録湿地なのかと思うほどだった。

それでも藤前干潟にある「藤前干潟稲永ビジターセンター」、「名古屋市野鳥観察館」そして少し離れた場所にある「藤前干潟藤前活動センター」に行ってみると、なるほどと思えた。

登録湿地になった背景をビジターセンターの方にお伺いした。
すると、藤前干潟は埋め立て地になろうとしていたこと、それを市民が反対運動を起こして阻止したこと、そこには‟藤前干潟を守る会”の辻さんというリーダーがいたこと。
そのストーリーは感動を覚えるものだった。
市民が立ち上がって、行政の方針を変えることができるのは稀だ。
それを成し遂げた方々の功績はとても大きいと思う。

希少種のミサゴ
野鳥観察館では藤前干潟に来る水鳥について詳しく教えていただいた。
望遠鏡をのぞくと、遠目では分からなかったけれど、そこには多種多様な鳥がいた。
一番驚いたのが、希少種であるミサゴの多さ。
この日は36羽を数えた。すごい!

「以前はちょうど良い大きさの流木があって、ミサゴが鈴なりになっていた。こんなに多くのミサゴが見られるのは藤前干潟だけだと思う」と観察館の方は笑顔で教えてくれた。
誇らしげに地元の自然を語れる姿がとても素敵だった。

ダイシャクシギ 3羽はいつも一緒
見ることができて嬉しかったのは、ダイシャクシギ。
くちばしが折れそうなほど細くて、とっても長い。
今は3羽だけ藤前に来ていて、いつも一緒にいるという。

このほかにもハマシギ、アオサギ、カワウ、スズガモなどがウヨウヨしていた。
でも、望遠鏡をのぞいてみて、初めて分かった。
地域の人たちはどれだけ関心があるのだろうか?
この豊かな藤前干潟を知っているのだろうか?
そこがとっても気になった。

そこで、活動センターにも足を延ばすことにした。

活動センターでも、とっても丁寧に対応して頂いた。
まずは藤前干潟のDVD(約30分)を見せていただき、そのあと館内を案内してもらった。

藤前干潟を守るための運動は、市民生活まで変化させた。
それは、ごみを削減しようという意識の変化だった。
埋め立て地の建設を中止させるために、ごみ減量の運動も同時に行ったという。
行政と市民との話し合いは15年にも及んだ。
名古屋市民は本気で変えようとしたことがうかがえる。

名古屋市のごみの量は激減し、ついに埋め立て計画は廃案となった。
少々余談だけれど、それほど時間をかけ、地元住民との話し合いをもたなければ、大型の公共事業は進めてはいけないのだと思う。
さらに、市民も動かなければ状況は好転しないということが分かる好事例ではないだろうか。

藤前干潟には漁業権がないことにも驚いた。
豊かな海でありながら、漁業権がないのはなぜか。
1959年、伊勢湾台風が名古屋市を直撃した。
この大型台風により、和歌山県、奈良県、三重県、愛知県、岐阜県という広範囲が被災し、犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)、負傷者38,921人という被害を受けた。
このため、名古屋港の南端に高潮防波堤が建設されることとなり、漁業にも影響が出るということから漁業権は放棄された。

ラムサール条約に登録しようとする時、漁業者から反対にあうことが多い。
新たな規制によって、漁業がやりにくくなるのではないかという懸念からだ。
登録湿地になったからといって新たな規制が生じることは無いのだが、新しいことに対しては不安になるのが当然といえば、そうだろう。
その漁業者が藤前干潟にはいなかった。

今は漁業権がないため、もちろん漁師がいない。
しかし、活動センターでは藤前干潟の漁業についても着目している。
漁業は乱獲にならなければ、陸から海へと流れてきた栄養分で育った豊かな資源を漁獲という方法で陸に上げることで、干潟の栄養バランスを調節する役割を果たすことができる。
栄養がしっかり循環するようになれば、干潟の自然保全にもなり、人も食料を確保できるという両得の関係を築くことができる。
そうやって、昔の日本は海を利用してきた。

現在、漁業権があった時代に藤前干潟で漁師をしていた方が一人だけいらっしゃるという。
ただ、たった一人。
藤前の持続可能な漁業も風前の灯となっている。
なんとか漁業文化を残すため、活動センターでは、最後の漁師の方に話を伺ったり、漁具を集めたりと、奮闘されている。

これからの課題を聞くと、「もっと地元の人たちに藤前干潟に来てもらうこと」と活動センターの方。
藤前干潟には地域外のファンが多いという。
こういった状況は、どの地域にもあり勝ちだ。
足元の魅力には、なぜか気が付かないのが人間の悲しいところ…。

藤前干潟はごみ焼却場の反対運動が起きていたころは、注目されていたというが、現在は関心を持つ人が少なくなってしまったのかもしれない。
名古屋に住む友人も藤前干潟の存在を実は知らなかった…。

埋め立て問題が解決したからといって、課題がなくなったわけではない。
同じごみでも、現在は不法投棄や漂着ごみの問題があるという。
名古屋市民が勝ち取った自然を、もう一度地元の人が関心を持ち、魅力あふれる自然と密着した素敵な名古屋にしてもらいたいと願う。

この日は幸運にも野生のタヌキに出会った。
活動センターの方も初めて見たという。
ぜひ、藤前干潟に足を運んでもらいたい。
もしかしたら、幸運のタヌキに出会えるかもしれない。
幸運のタヌキ☆

2012年11月21日水曜日

原爆ドーム、広島平和記念資料館で考えた。

東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故は、衝撃が大きかった。
それは、小学生の時、ヒロシマ、ナガサキの悲劇を学び、チェルノブイリ原発事故を知り、コントロールできない強大な力を持つ原子力というものは怖いものだと・・・、だから原子力発電所はなるべく減らしていかなければならないものだと、そう、思っていたのに・・・。
これまでほとんど原子力について考えることもなく、気付けば原発への依存度は高まり、そして事故が起きた。

だから今、広島平和記念資料館に来た。
原発事故前とは違う、何かを感じるのではないかと思ったからだ。

資料館は、外とはまったく違う空気が流れている。
その場にいる誰しもが、そこにある広島の叫びに釘付けになり、館内は静まり返っている。


足を進めると、まずはヒロシマの願いが目に飛び込んでくる。

広島は原子爆弾を落とされた街
広島は慰霊碑がたくさんある街
広島は世界平和を求め続ける街

みなさん、広島の近代の歩みをご覧ください。
遠い思い出、苦い反省、昔の時代へのおどろき…

みなさん、原爆がもたらしたものをご覧ください。
苦しみや痛み、怒り、何をすべきかの悩み…

・・・・ヒロシマは、
核時代に希望の灯を掲げつづけます。”


そしてなぜ、ヒロシマに原爆が落とされたのかを知ることになる。

投下目標として、京都や横浜、新潟なども想定されていたこと、
原爆の効果を正確に測定できるように、投下目標の都市への空襲が禁止されたこと、
警告無しで投下されたこと…。

1945年8月6日午前8時15分 原爆投下
原爆が投下された後の広島市内












ヒロシマは廃墟となった。
原爆投下によって起きた多くの悲劇がそこにあった。
どこを見ても、目をそむけたくなるような事実ばかりが並ぶ。

そして、苦しむ被爆者への対応ついて。

原爆投下から2年後の1947年には、原爆傷害調査委員会(ABCC)が設置されていたそうだ。
当時、市民からは「研究、調査するだけで治療行為はしない」と、批判の声も上がっていたとか。
なんだか、時代が繰り返しているという感じも…。

この委員会はのちに日米対等で管理、運営されることとなり、現在の公益財団法人放射線影響研究所(RERF)となる。

このRERFは、福島第一原子力発電所の事故を受け、放射線などに関する情報発信もしている。

<放射線による人体への影響とは>

さらに衝撃なのは、母親が妊婦の時に被爆し、障害を持って生まれてきた子供たちがいたこと。
原爆小頭症というらしい。
広島市のHPによると、胎児期の脳は放射能の影響を受けやすいという。子供が成長するにつれて知恵遅滞が生じるケースもあるとか。

広島市のHPに掲載されている畠中国三さんの言葉を一部抜粋させてもらう。
11年がたったある日、ある映画会社の一行が我が家を訪れ、百合子をビデオに撮りたいといってきたのです。私たちは彼らに応じ百合子のビデオを撮ってもらいました。そして、その年の暮れ映画「世界は恐怖する」を見ました。私たちはこのとき初めて、百合子は放射能によってこの病気になったのだと知りました。
(中略)
たとえ直接原爆にさらされなくても、人はその後何年も苦しまなければならないのです。また、たとえ原爆が落とされた時に生まれなくても、生まれた後で苦しまなければならないこともあるのです。 」(広島市HP ‟伝えたい核の悲惨さ 原爆の恐ろしさ”より)


原子爆弾や放射線の恐ろしさについて、あるパネルに以下のように書かれている。

原子爆弾は、火薬の爆発力を利用した通常の兵器とは比較にならないほど大きな威力を持ち、強い熱線と爆風を出します。
さらに決定的な違いは、大量の放射線を出し、生物に被害を与えるということです。

放射線とは何か?、どういった被害が出るのかについて説明がなされている。
人体に及ぼす放射線の影響

放射線による影響が大きいのは、骨髄、粘膜、生殖器などの細胞分裂が活発に行われる部分だそう

放射線と遺伝的影響
今までのところ、被爆後に特に有害な遺伝的影響は見出されていないものの、今後も長期にわたって観察、研究していく必要がある―。そう、パネルには書かれている。
つまり、放射線による影響についてはすべてが解明されている訳ではないということだ。

今回の原発事故も、放射能の影響が明確ではないから怖い。
すべてがハッキリ見えない中で、多くの人は不安を抱えている。
分からないことには、後で笑えるくらい慎重な対策を取ったっていいはずだ。
影響がなければそれこそ笑って済ませることができる。
でも、もし逆だったら…。

わたしたちの生活は、この放射線を生み出す原子力に頼ってきたことを忘れてはいけない。
でもそんな生活、続けられない。続けたくない。

<核廃絶に向けたヒロシマの取り組み>

核実験に対する抗議文
歴代の広島市長は1968年から、各国で行われる核実験に対して、これが最後の抗議文になるようにと願いながら、その都度、抗議文を送り続けている。
その抗議文はすべて資料館の壁に貼り出されている。
悲しいほど、壁一面を覆っている。
その数は、600通を超えていた。
ちなみに、これまで一番多くの抗議文を送っている国はダントツでアメリカ。

広島の願いは届いていないのか、2011年1月現在、2万発以上の核弾頭が地球上に存在している。
もっとも核弾頭の保有数が多いのはロシアで、11000発。次いでアメリカの8500発。アメリカは2022年までに、3500発の核弾頭を解体する予定らしい。
ぜひ、実行していただきたい。
ほかの国でも核兵器の削減に取り組んでほしい。




平和市長会議 2020ビジョン
広島市と長崎市は1982年、核兵器のない平和な世界を実現することを目的に‟平和市長会議”を設立した。
2012年11月1日現在、この会議に155の国と地域から5443都市が加盟している。

この会議では2003年に、2020年までに核兵器根絶を目指す具体的な行動指針「2020ビジョン」を策定した。
さらに国連でも、2010年から2020年までの10年間を「核の脅威に関して決断を迫られる10年」と位置付けて、核兵器の根絶に向けて動いている。

2020年まで8年。
平和市民会議や国連だけではなく、NGOや市民などの民間側と協働することで、より具体的な実現に向けて加速できると思う。

<日本だからこそ、果たせる役割>

核兵器と原子力発電を一緒にすべきではないのかもしれない。
でも、国による被爆者への対応など、今回の東電の事故と重なる部分が多い気がしてならない。

そして、原子力発電の陰に核兵器がチラついて仕方がない。
ヒトがコントロールできないものを使うべきではないし、そもそも一瞬で大量の命を奪うだけでなく、後世にもその影響を残しかねないものを使ってはいけない。
唯一の被爆国、そして、原発事故を経験した日本だからこそ、その痛みを世界に発信していく役割があるのではないだろうか。

川面に映る原爆ドーム

<参考>日経ビジネス 被爆の地獄を伝え続ける

中沢 啓治(『はだしのゲン』著者)の告白

歴史的悲劇を伝える存在を物質的に残す意味。

原爆ドームを見たかった。
広島平和記念資料館に行って、自分が何を感じるのか知りたかった。

東日本大震災によって起きた東京電力・福島第一原子力発電所の事故。
原発と原爆は違う。
でも、両方とも原子力を利用している同類のもであり、切り離して考えることはできないと思う。
だから今、どうしても原爆によって被爆した経験を持つ広島に来たかった。

悲痛な事実を後世に伝える 原爆ドーム
原爆ドームの前にある石碑には、以下の言葉が書かれていた。

‟昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島県産業奨励館の残骸である。
~中略~
この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の基金によってこれを補強工事を施し、これを永久に保存する。
昭和42年8月6日 
広島市”


原爆ドームは現在、当たり前のように保存され、世界中の人々に対して原爆の恐ろしさ、平和を願う心を伝えている。しかし、当初からスムーズに保存が決まったわけではない。
長い間、保存か取り壊しかという議論にさらされていた。
現在の被災地に残された建造物のように・・・。

広島市のHPによると、原爆ドームが保存へと動いたのは一人の少女の力が大きいという。
楮山ヒロ子さん
1歳で被爆し、15年後に亡くなった彼女は、「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけがいつまでもあの恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろうか」と残している。国内外での募金活動、さらには子供たちによっても保存運動が行われ、1966年にやっと広島議会で保存を要望する決議が行われました。
原爆投下から21年が経過していた。

原爆ドームは、被爆した方々にとっては、ただただ、つらく、苦しい経験を思い出させる存在なのかもしれない…。それでも、後世に原爆の恐ろしさを伝えることを選んでくれたことに、感謝せずにはいられない。

余談かもしれないけれど、現在、被災地各地で津波の恐ろしさを伝えるための建造物などが保存か、取り壊しかに揺れている。
一つの答えが、ここにあるような気がした。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑
また、広島平和記念公園内には、こんな石碑も立っている。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑】。

以前、来たときには気が付かなかった…。
広島市のHPによると、韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会が建てたもの。
当時、広島市内には数万人に上る朝鮮人がいて、被爆してしまったそう。

日韓併合により、多くの朝鮮人が生活基盤を失い、職を求めて日本に移住せざるを得ない状況だったと、広島市のHPでは説明している。
原爆による被害は、日本人だけでなく、そこにいたすべての人を被爆させたということを、忘れてはいけないのだと改めて気付かせてくれた。

海外に出て、韓国人の友人がたくさんできた。
それで今回、この慰霊碑の存在に気づくことができたのだと思う。
韓国の友人たちに感謝したい気持ちになった。
そして、この事実を韓国の人たちにもお知らせしたいと思った。

暗くなってきた。
広島平和記念資料館へ向かった。
広島平和記念資料館

世界遺産 ラムサール条約登録湿地 国宝 日本三景 さすが宮島

広電に揺られ、やってきました宮島口。
ここから宮島行のフェリーに乗ります。
ここに来て、広電の船とJRの船と2種類あるんですね~
わたしはもちろん広電の船。
広電の一日乗車乗船券を持ってますから♪

乗船するとすぐに、ご存じ厳島神社の鳥居が見えてきます。
あ、厳島神社だ

どんどん近づいてきます。
ほら、こんなに近くに
厳島神社はもうすぐそこ!

宮島に到着するとすぐに、シカ、シカ、シカ。
いらっしゃ~い 宮島シカ
シカに迎えられます。
宮島のシカは、神に仕える「神鹿(しんろく)」として大切にされているそうです。
ウィンクだってしてくれます☆ 宮島シカ
シカの可愛さあふれる誘惑に負けたり、負けなかったりしながら厳島神社に到着です。

厳島神社 入口
入口です。

左には「世界文化遺産」、右には「国宝」の堂々たる文字。
赤が並ぶ建物は、まさに神社という感じで、圧倒されます。










季節は秋。

紅葉が始まって、少したったくらいです。
大きなイチョウの木が、とてもきれいな黄色に色づいています。
この黄色と神社の赤が、そして五重塔が何とも言えず、歴史絵巻の中にでもいるような感覚にしてくれます。

日本の文化、美に改めて感動しちゃいます。
大切にしたい感覚だな~、なんて。

厳島神社から日本の美的感覚に感動していると、なにやらざわざわしてきました。
結婚式が行われていて、そのための舞楽が披露されるとのこと。

雅楽の奏者も定位置についたところで、面を被り、細かい刺繍がほどこされた華やかな服をきた踊り手が登場です。

幻想的で、荘厳な雰囲気。
踊り手が舞い始めると、空気が一変したのを肌で感じます。

この舞楽は、平清盛が四天王寺から伝えたものといわれているらしく、見応え十分です。
運が良ければ見られるかも!?

厳島神社に伝わる舞楽は圧巻です

ちなみに、宮島の大鳥居が鳥居の重さで立っているのをご存じでしょうか?
高さ16mもある鳥居の柱ですが、海底深くに埋められているわけでもなく、その重さで立っているそうです。
推古天皇の時代に、台風にも地震にも倒れない鳥居を海に建てる技術があったことに驚かされます。





五重塔
厳島神社を後にし、五重塔へ行ってみることに。
五重塔の手前にあるイチョウの木もとても大きく、近くで見るとその高さを実感します。

イチョウの木を通り過ぎ、さらに坂を上ると千畳閣という建物があります。
千畳閣は、豊臣秀吉が戦没者のために建立するように命じたものの、完成を前に秀吉が亡くなったため、現在も未完成だそうです。

未完成のままだなんて、ロマンを感じてしまいますね。

千畳閣に入ってみると、そこから見える景色がまた最高なのです。
入館料が必要ですが、これはぜひ、入っていただきたい!
宮島は厳島神社だけではありませんよ~
ほら、こんな感じです。
千畳閣 イチョウがきれいです
時間があまりなかったのですが、満足の宮島です。
ただ、もう一つ、宮島と言えば忘れてはいけないのが【もみじまんじゅう】ですよね。
最近は、もみじまんじゅうを揚げた【揚げもみじ】というのが流行っているそう。
これです!
揚げもみじ
日本の変わらない文化の美と、新しく変わっている食文化とを体験した宮島なのでした~

広島は、広電の存在がいいんです☆

松山からフェリーで広島港に到着。
広島のいいところが公共交通機関の発達ぶり。

のんびりした広電の車内
広島港に路面電車(広電)が接続しているのがいいんです。
広電1日乗り放題+宮島松大汽船往復チケットが一緒になった「一日乗車乗船券」(840円)を購入。
これで、宮島と平和記念資料館に行きます。

宮島に行くには少し時間はかかりますが、余裕があればお勧めです。
街並みが楽しめます。

ちなみに、広電の料金は市内であれば一律一回150円。
安いですね~


まずは重いバックを預けに広島駅へ。


ちょうどお昼の時間になっていたので、ランチにしようと駅を物色。
美味しそうなつけ麺屋さんを発見しました。

ばくだん屋です。
美味しいのか、有名なのか、全然分からなかったけれど、とにかくお腹が空いたので入ることに。
辛味噌つけそば(小)700円を注文してみました。

辛さを選ぶことができるのですが、もちろん一番辛いのを注文。
真っ赤なスープが出てきました。
でも、そんなに辛くなかったかな~。
最近、バカ舌になっているのかもしれません…。

腹ごしらえも済み、宮島へ出発です!
宮島に行くなら広電 一日乗車乗船券840円はお得

愛媛から広島へ。平安時代、明治、昭和、そして現在を感じられる航路です。

早朝6時。松山市大街道。
せっかくだから、愛媛県庁本館を見に来ました。(松山の環境ねぇさん・やっつ~さんに教えてもらいました♪)
ネットで調べたところによると、1929年に竣工した歴史的建造物。
ちなみに、北海道の赤レンガ庁舎(北海道庁旧本庁舎)は1888年に建てられたもの。

正面玄関すぐにあるロビーには白と黒の大理石が使われていて、なんとそこにはアンモナイトの化石がいくつも見られるそう。
早朝だから見ることができなかった…。リベンジだな(笑)

そして、広島行きのフェリー乗り場へ。
瀬戸内海汽船で瀬戸内海を超え、広島に行くのです。
所要時間は2時間40分。
お値段は3900円。
高速船もあり、所要時間は1時間とさすがに早いものの、お値段が6900円とちょっとお高め。

わたしはもちろん、ゆっくりのんびり、リーズナブルなクルーズフェリーに乗船することにしました。
8時25分に出港です。
鉄道と同様に一番前に席を陣取りました(笑)


乗船前、コンビニで松山らしい食べ物を探してみると、ありました!
飲み物は全国で入手可能だと思いますが(でも、愛媛産温州みかん)、このマロンメロンパンはないでしょ~

ファミリーマートと愛媛調理製菓専門学校との共同企画で誕生したものだとか。
愛媛県産伊予柑のマーマレードをサンドしてあって、朝からはちょっと甘かったですが、菓子パンとしては美味しかったですね。




いくつも島を次々に通り過ぎ、とある名所に差し掛かりました。


清盛公が1日で開削したという伝説が残る“音戸の瀬戸”
船は減速し、船内アナウンスが流れ始めます。
アナウンス:ここは、平清盛公がたった1日で開削したことで有名な“音戸の瀬戸”です。

全然知らなかった…。

アナウンス:清盛公はここを開削する際、人命を尊んで人柱の代わりに一字一石の経石(一切経)を海底に沈めたと伝えられています。優しい人だったのかもしれませんね。

へぇ~、そうなんだぁ~



さらに進むと、鉄の塊のような工場が見えてきます。
日新製鋼呉製鉄所です。
工場好きではないのですが、錆びた感じが歴史を感じさせる佇まいで、何枚も写真を撮ってしまいました。

調べると、1951年に建設されたとの事。
それ以前は、戦艦「大和」を建造した呉海軍工廠があったそうです。

工場の外には、おそらく砂鉄と思われる山がいくつもあり、たくさんの煙突から白い煙が上がっているのが見えます。

製鉄所は大量の水とエネルギーを必要とするため、大きな環境負荷を与えます。
でも、だからといって無ければいいという話ではないと思います。
日本の製鉄技術は、環境に負荷低減について世界の先端をいっているはずです。
その技術を途上国へ移転し、地球全体として環境への負荷を少しでも軽くしてもらえることを期待したいですね。

さらに進むと、海上自衛隊 呉地方隊の護衛艦がいくつも見えてきます。
呉港に並ぶ護衛艦
さすが呉。
終戦前までは、帝国海軍の主要基地として発展していた地域。
今でも海上自衛隊のまちといった感じです。
あまりにもたくさんあるので、ちょっと驚異的な感じを受けます。
これからも、護衛をしてほしいです…。

呉には大和ミュージアムもあり、海軍基地だったことから、海上自衛隊のまちであることを売りにした観光を展開しているように感じます。

さぁ、そろそろ広島に到着です。